8月ももうすぐ終わりです。過ぎてしまえば夏はあっという間です。
夏といえば終戦。72年前も昔のことですが。
私の父方の祖父母は満州からの引き上げを経験しています。母方の祖父はガダルカナル島の戦いの際輸送船での物資補給作戦に参加しました。
私の嫁さんの父方の祖父母も満州引き上げ組でした。もう二人とも他界されていますが、新婚当時嫁さんの実家にお邪魔した際はその頃のことをよく語られていました。
ソ連軍の侵攻
嫁さんの祖父母は満州のしかもソ連との国境に比較的近い場所で暮らしていたそうです。おじいさんは満鉄関係の仕事のため満州に移住したそうで軍人ではありません。
が、ソ連侵攻の時は一般人も戦場に駆り出されていたといいます。たぶん、簡単な軍事訓練(銃剣の使い方とか)を受けさせられたのでしょう。
おじいさんもそんな一般人の一人でおばあさん(当時は20代前半)とまだ小さな息子を村に残して戦場へ赴いたそうです。
死を覚悟した戦い
関東軍は日本陸軍の南方作戦のため兵力をかなり削がれていたため、兵員も不足、武器弾薬も不足、兵器も不足とソ連と戦えるような状態ではなかったといいます。
戦力の差は圧倒的でとにかく戦おうにも弾がなかったんだから何もできないよ、とおじいさんは言ってました。
あと一日終戦が遅かったら玉砕していたーーー。
命拾いしたものの待っていたのは過酷な抑留生活
玉砕の前に停戦命令、捕虜としてソ連軍に捕まりました。そして教科書にも出てくるシベリアへの抑留生活が始まるのです。
冬は氷点下の極寒の荒れ地です。この地でたくさんの日本人が故郷の地を踏むことなく亡くなっていますが、おじいさんは強運の持ち主でした。
馬車の馬がした糞がカチカチの茶色い固まりになって道路に落ちていて、それがジャガイモに見えたらしく、持ち帰って火の側で調理しようとしたら元の泥状の糞になってがっかりしたと言ってました。
1年間の捕虜生活の末、帰還が許されたのです。
でも、この時おじいさんはおばあさんとまだ小さな長男が無事に生き延びて祖国に戻れたかどうかすら知りません。帰っていいと言われても帰る場所もないかもしれないと絶望したそうです。
そして鉄道の貨車で移送中、いっそのことこのまま貨車から飛び降りて死のうかとも思ったとその当時の心境を私に語ってくれました。
四日市は空襲で焼け野原
故郷の四日市に戻ったら焼け野原になっていたそうです。
でもおばあさんは生きていてくれました。おばあさんは長野から嫁いできたのですが、おじいさんが戻るまで嫁ぎ先の四日市にいたんです。生きて帰ってくる保証もないのに。
嬉しかったと思います。生きておばあさんと再開できた瞬間に絶望が希望に変わったのだと思います。
しかし、長男は引き上げの混乱で亡くなってしまったそうです。
おじいさんは大正10年の生まれですから生きていれば96才。もうこの時代を生きた人たちはどんどん亡くなっています。聞きたくてももう二度とこの話は聞けませんし、忘れないうちに記事にしておこうと思いました。
次はおばあさんの引き上げ体験について書きます。
おわり