昨日の記事(嫁さんの祖父母の戦争体験(前編))でおじいさんの戦争体験(ソ連軍との戦い–>終戦–>シベリア抑留–>帰還まで)を書きました。
今日はその続きで満州に乳飲み子とともに取り残されたおばあさん(当時は20才前半)の話を書きます。
日ソ不可侵条約の破棄とソ連軍の満州侵攻
日本とソ連はお互いが中立を守るため太平洋戦争中日ソ不可侵条約を締結していました。しかし、連合軍が欧州で優勢になり、太平洋戦争における日本の敗北が濃厚になる戦争末期、突如ソ連軍が満州国境を越えて侵攻を開始しました。
一方的な条約の破棄だったと言われています。
ソ連軍の怒濤の進撃は1945年8月9日に開始されました。そして日本がポツダム宣言を受諾して降伏した8月15日以降も攻撃は継続され、ソ連が攻撃を止めたのは北方4島を手中に納めた9月5日だという。
この攻撃の過程でソ連軍は虐殺・強姦・略奪といった非人道的な数々の戦争犯罪を行い日本人を殺したとされている。
ソ連軍の蛮行
「ソ連軍」「蛮行」「満州」のキーワードでググればいくらでも関連ページが出てきます。この当時の混乱の中でたくさんの日本人が殺されたのは歴史的な事実でしょう。
関連ページを見ているととても信じられない蛮行の数々について記載されており、日本人として心が痛みます。
しかし、引き揚げを経験した嫁さんのおばあさんの話はソ連軍の蛮行は全くなかったそうです。
ソ連の兵隊が街を占拠、そして・・・
ソ連軍の蛮行は何となく知っていたのでおばあさんの話はかなり以外でした。
ソ連が侵攻してきた当初、集落には女と子供しかいませんでした。男は全員戦争にかり出されていたのです。
なぜ逃げなかったのか、理由は聞いていませんが、おばあさんを含め相当数の日本人家族が集落に取り残され、ソ連軍の侵攻に恐怖して一ヶ所に身を寄せあっていたといいます。
そしていよいよソ連軍がやってきて、一軒一軒回ってきます。
そしておばあさんとご近所さんが潜む家にもソ連の兵隊が入ってきました。
関東軍からソ連軍の野蛮さを教え込まれていたので、とにかくわざと顔や髪に泥を塗って、服装も粗末なボロをまとって汚い風貌を装って暴行されるのを避けようとしたのでした。
ソ連兵は意外にも紳士的だった
これはもう何度もおばあさんが繰り返し語っていたことなのですが、意外にもソ連兵は紳士的だったそうです。
連行してレイプなどなかったといいます。
もちろん蛮行がなかったと言いたいわけではありません。色々な証言が残っていますし、ソ連兵だけでなく日本人を恨んでいた中国人も朝鮮人も引き揚げる日本人に対してとても人間とは思えない蛮行を行ったのは事実だと思います。
しかし、おばあさんの集落を占領した部隊の兵隊は皆紳士だった。そういう部隊もあったということは記憶に留めておきたい。全ての兵隊が非人間的な行いをやったわけではなかった。
これは歴史と向き合う上で忘れてはいけないことだと私は思うのです。
日本の兵隊さんも相当悪いことをやったはず。でも紳士的に振る舞った兵隊もたくさんいたはずなんですよ。
でも、おばあさんはよくこう言ってました。
「日本の兵隊の方がよほどひどいことをやったんじゃないかね。自分達が逆の立場(征服される立場)になったらソ連兵もきっと自分達と同じ蛮行を行うと思ったんじゃろう。でもソ連兵はちっとも悪いことはしなかったよ」
そしてこう付け加えました。
「ソ連兵はむしろ顔を泥で汚して項垂れている私たちを見て、顔を洗いなさい、日本人の女性は美しい。私たちの前でそんな真似しなくてもいいと」
売春婦を募った
怯えるおばあさんとそのご近所の女性と子供を前に蛮行を働かなかったソ連兵。でも、兵隊の相手を買って出てくれる売春婦を募集していたそうです。
「この中にそういう仕事をやれる女性はいるか?」みたいな質問はされたと言っていました。
みんな一様に首を横に振ったところ、諦めてその家から兵隊は立ち去ったそうです。
この後の引き揚げの悲惨な経験については結局私は聞くことができませんでした。そうこうしているうちにおばあさんは他界されてしまいました。
引き揚げの最中にまだ赤ん坊だった長男を亡くし、終戦後焼け野原になった四日市でシベリアから戻ったおじいさんと再開でき、そして生まれたのが私の義理の父親です。
少しでも運命が異なっていれば私の嫁さんはこの世に存在していなかったろうし、私もまた存在していなかった。
運命とは不思議なものです。
おわり