老少不定を考える

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先日、義理の祖母の四十九日の法要に私もでできた。

祖母の宗派は親鸞が開祖の真言宗。

ご縁様からありがたいお経を読んでもらい、最後に少しだけ講話を頂く。

しかし、私のような信心深くないものにとってこのお経の時間はとても苦痛だ。なんと1時間半近くも儀式が続くのだ!

暇だからといってスマホをいじるわけにはいかず、慣れない正座やあぐらを交互にやって足が痺れないようにしてた。

暇なので配られたお経とか和讃が載った小さな冊子をパラパラとめくっていたらある四字熟語を見つけた。

老少不定

ろうしょうふじょう

どういう意味か?

早速ググってみる。

人間の寿命がいつ尽きるかは、老若にかかわりなく、老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らないこと。人の生死は予測できないものだということ。▽人生の無常をいう仏教語。「不定」は一定しないこと、決まった法則や規則がないこと。「少」は若い意。

必ずしも親が子より早く死ぬとは限らないということか。

人間、いつ死ぬかわからない。だから後悔ないように毎日を真剣に生きようということなんだろう。

だがこれを実践して生きることは非常に難しい。毎日を惰性で生きている私にとって頭で理解しても実践するのは難しいことだ。

今日、私が死の宣告を受けて余命が残りわずかだと知ったとする。

考えるだけで憂鬱になる。

だが遅かれ早かれ自分の死と向き合わねばならない日が来るのもまた避けられないこと。

自分がいつか死ぬことを頭の片隅に入れて時折思い返して今の惰性で生きている自分を問い直すというのは意味のあることなのかもしれない。

明日死ぬなら今日どう過ごすべきか?この言葉を時折思い返してみたい。

おわり