理人です。
今週はアメリカ出張です。成田を出発して17時間かけてようやくホテルに辿り着きました。小腹減ったので、先ほど持参したお煎餅とインスタントの味噌汁を食べたところです。
時差ぼけで眠くないので、こんな夜遅くにメールチェックと返信を済ませ、今からブログと向き合いたいと思います。
何度も書きますが、ブログと向き合うこと=自分と向き合うことなので、今の私にはとてもこの時間が貴重なのです。読んで下さる方に有益な記事かけず申し訳ないのですがm(._.)m
今日は記憶と思考の癖について思うところを書いてみたいと思います。
時間が解決してくれると言うけれど
時間が経つとともに悪い記憶は薄れ、それにともなって良い記憶の方がより鮮明に記憶に残ると聞いたことがあります。
また、よく言われるのは「時間が解決してくれる」という言葉です。英語でもこれに近い言葉はあって、Time is tellとかTime can solve everythingとか使われるようです。
悲しみや苦悩に直面しても、やがて人間は立ち上がるということを言いたいのだと思います。
私の過去を振り返ってみた場合、確かに時間が解決してくれたことってたくさんあったと思う。時間が経ってもはや記憶にさえないようなことだって多分たくさんあると思います。
しかし、奇妙なことにいつまでも私を苦しめる悪い記憶というのが存在するのも確かなのです。
良い記憶を思いだそうとしても、実はあんまり思い出せない自分がいます。
私の人生、そんなに良い想い出がないのかなぁ・・・。そんな風に思うとちょっぴり悲しくなる。
やっぱり幼少期に原因があるのかな
ブログを通して私の思考は現在・過去・未来をいったりきたりしていますが、過去を考えるとき悪い記憶の方が圧倒的に良い記憶を上回る頻度で現れます。
例えば大学時代、入学当初のワクワク感、新しい友達、そして恋人、サークル活動、旅行・・・その当時は青春を謳歌していたはずで、それなりに楽しかったはずなのですが、なぜか良い記憶として甦ってこない。
逆に腹立たしい記憶とか理不尽な仕打ちとか、友達の裏切りとか、ささくれた負の感情の方が強烈に記憶に刻み込まれていて、苦々しい記憶として頻繁に甦ります。
悪い記憶といっても、トラウマになるような物凄い体験(例えば戦場の記憶みたい凄惨な体験)ではないのです。青春にありがちな人間関係のちょっとしたこじれとか、サークルでのアルハラだったりとか。
全然大したことじゃないはずなので、当時のイライラしたりムカムカしてくる怒りの感情が突然沸々と心の中で沸いてきたりします。
この思考パターンは一体なぜ起こるのか?
実に下らない、他人に言ったら笑われるような些末なことでなぜ40近くになるおっさんがくよくよ考えないといけないのか?なぜ惨めな思いをしなきゃならんのか?
時間が経ってもなお追いかけてくるこの不気味な記憶の正体は一体何なのか?
自分でもこれがわからんのです。
思考の癖?
それとも小さな怒りを我慢し続けてきたから?
他人を許せない?
ひとつ私が薄々気づいていることは、母親の影響です。
私の母親は基本的にネガティブ思考の強い性格でした。何かをやって他人に感謝されるような場面でも、謙遜しまくりでしたね。
それに他人から誉められたりすると全否定する人でした。例えば、「お宅の理人ちゃん、一人でバスに乗って京都駅まで行ったんですってね、すごいわね」と近所の主婦から言われたら、全力で否定します。
「うちの子なんて全然すごくないですわよ!!!!」、「お宅の○○ちゃんに比べたら全然ダメ!!」
実際スゴくもなんともないですが(笑)。
まあ例えば悪かったかもしれませんが、とにかく私の母親は子供の良いところをとらえてそれを誉めるということはあまりなかったように思います。親から学校のテストの点以外で誉められた記憶がほとんどありません。
でも、本当は誉めて欲しかったのではないか・・・。幼少期の満たされなかった欲求が思考の歪みの原因になっているのかもと最近考えるようになりました。
人生を束縛するのは会社だけじゃない
会社に支配されたり、何かに支配される人生は私はまっぴらごめんなんですけど、実は会社以上に私を束縛しているのがこの「思考の癖」なのかもしれません。
私のように幼少期に人格形成、自己形成がうまくいかなかった場合、大人になっても狭量な思考回路によって苦しめられたりする。
でも、過去に戻って母親に「もっと子供を誉めてあげた方がいいよ」と助言することはできません。
しかし、残りの人生、過去のしょうもない記憶にいちいち付き合ってられるか!そう思います。
試行錯誤の日々が続きますけど、ブログでこうした思いをぶちまけるのも、自分の自我を再構築するために必要なプロセスなんだと思う。
何とかこの思考の癖を直して楽に生きたい。
おわり